歩道橋の階段を数段下がったところで、変声期特有の錆びた声に呼び止められた。
青
「お、」
「あ、岳人」
錆びた声の持ち主は岳人だった。
ありとあらゆる匂いが水蒸気を含むサウナのような空気に脳を溶かされかかっていた私は、
その声ですっかり現実に引き戻された。
通常の思考回路を何とか確立しようと、歩道橋の階段を、出来るだけしっかりとした足取りで下りて行く。
足を曲げる度、膝裏の辺りがべとつくのを感じて、
私は一体何の酔狂でジーンズ(七分丈だけど)を履いてきてしまったんだろうとちょっと後悔した。
ああ、冷房が欲しい。でも家には帰りたくなかった。
ふもとにいる岳人は乗っていた自転車のブレーキをキッと引いて、彼らしい機敏な動作で両足を地面につけた。
ふわりと揺れる彼の白い靴紐が眩しい。
薄緑の塗装の剥げかかった歩道橋の下ではいつも
遠慮の欠片もなく車が行き来しているのに、今日は存外騒音が少ない。
バイクが一台、排気ガスと振動音を引っさげて走り抜けて行ったくらいだ。
「何、練習の帰り?」
「おう」
岳人の右肩には大きなテニスバッグが下がっていたから、一目でそうと分かる。
何せ氷帝学園男子テニス部だ。
夏休みといえど練習に手を抜くはずがなく、ましてレギュラーの練習量ともなれば相当なものなのだろう。
ジーンズを履いて膝裏がべとつくのが嫌だとか私が思っている間に、彼らはその何倍もの汗を流して黄色いボールを追っているわけで。
帰宅部の私にはその苦労は想像もつかない。
「この暑いのにご苦労なこったね。青春だね」
「なんかババ臭いぜお前」
「どうせババ臭いですよ。今も本屋で漫画買ってきた帰りですよ」
「いやそれはどっちかっつーと若者っぽいんじゃねぇ?」
的確なツッコミを入れる岳人をよそに、私は汗ばむ右手に提げたビニールの袋がじわじわと引き出す罪悪感に耐えていた。
岳人が有意義に部活の練習に精を出している間に、私は何か生産的なことをしただろうか。
パリパリ音を立てる新刊の漫画の入ったビニールも、私の心を軽くしてはくれない。
それどころか一層重たくするばかりだ。
漫画なんて買っている暇は、本当はないのに。夏休みが天国だなんて言ったのはどこのどいつだ。
宿題、人間関係、進路、自分のこと。看過も回避も許されない、考えなければならない問題が山積みになったまま、ぐちゃぐちゃに入り乱れて私の心を重たくしている。
それらから何となく逃げ出したくて、わざわざこの暑い中外に出たのだ。
そこで偶然にも岳人に会えたのは、救いだったかもしれない。
「…おい?」
「岳人はさー、進路のこととか考えた?」
「ああ、全っ然」
小気味よいほどスッパリと、低めに錆び付いた声が答える。
なんだお前そんなことで悩んでたのかよ、と聞こえなくもないほどの爽快さ加減だ。
「なんだよ、悩んでんのか?」
「いや別に、そうじゃないけど、」
そうじゃないけど、なんだろう。
歩道橋の下を過ぎた車の騒音とクラクションが、生ぬるい風と更なる暑苦しさを運ぶ。
それを息苦しくも感じたのは、今私の心が少しも晴れていないからだろう。
新刊の漫画を三冊買ったところで、私の心には依然灰色の暗雲が垂れ込めているくらいだから。
苛ついたように岳人がばり、と頭をかく。唐突に訳の分からないことを言い出す私の対処に困ったときの、彼の癖だ。
学生らしく部活に打ち込んでいる彼の青春はちゃんと言葉通り青いのかなあ、とまたも訳の分からないことを思う。
どちらにせよ私が過ごしている青春は、
青い春なんて聞くからに清くて綺麗で、晴れやかなものなんかじゃない。
少なくとも青くなんてないだろう。もっと薄暗くて濁った、陰気な色が当たっている。
譲歩するなら日本語の「青」ではなくて、倦怠や憂鬱を指す英語の「blue」の方が相応しい気がする。
それでも排気ガスか泥水か、雨雲みたいな、灰色の方がしっくり来る。
人間関係は難しいし、社会のことは漠然としか分からない。自分のことも、良くは分からない。
理想を純朴に信じられるほど子供じゃないのに、現実ばかり見ていられるほど大人じゃない。
決断は迫ってくるのに、どこもかしこも分からないだらけ。そんな時期の、何がすっぱり青いというのか。
「…なんとなく、ね。時々考えるんだけど、全然、分かんなくてさ」
選択の余地に溢れている私たちを、大人たちは「羨ましい」と言う。決まって、少し小馬鹿にしたような表情で。
そして、その可能性を有効に活用しなさい、と言う。
けれど彼らは、知っているだろうか。
可能性ばかり押し付けられることの窮屈さを。
私たちのそう多くは、取捨選択のための術を持ち合わせていないということを。
いくら道があったって、選べるものは結局一つしかないのだという苦悩を。
かつて経験したはずのそれを、もう彼らは忘れてしまっているのだろうか。
「青春」を生きる、私は。
夕立の後の土みたいにぬかるむ迷路の中で、「自分」なんて途方もなくぼやけたものを掴もうと必死で足掻いている。
生きていることの倦怠を感じ取り、生きていることの意味を考えてぐるぐるして、
そのくせ可能性ばかり転がっていることを知って、
時々癇癪持ちの幼児みたいに泣きたくなる、そんな。
そんな灰色の衝動を、大人たちは「青いね」と言って笑うだろうか。
私たちを羨ましいという、あの同じ表情で。
立ち尽くす私に岳人は、その小さな顔を少し右に傾げて腕を組んだ。
「まー、それが普通じゃね?つか先のことなんか正直考えてられねーよ。それより今だろ、今」
岳人は、私の手から新刊の漫画三冊の入ったビニール袋を引っ手繰るなり、それを自転車のハンドルに掛けた。
と思うと左の方角を指差して「お前んちそこの角だよな?」、といつもの錆びた声で言う。
私がうん、と言うのも待たずに、この年の男子とは思えないほどの身軽さで、ひらりと自転車に飛び乗った。
そうして、振り返って、笑う。
「乗れよ。かっ飛ばすぜ!」
…このナチュラル気障。
心の中でそう呟くけれど、真夏の光を反射する岳人のワインレッドの髪一筋一筋が、あまりに眩しかったので、そんなのどうでもよくなった。
私はふとさっきまであれだけ沈んでいた自分がニヤけているのに気付いて、その理不尽に今日初めて笑って、後輪の軸に足をかけた。
体格の割に力のある足を通して岳人の体重がペダルに載せられると、自転車はゆっくりと、それでも確実に動き出す。
「青春」を生きる、私たちは。
夕立の後の土みたいにぬかるんだ迷路の中で、「自分」なんて途方もなくぼやけたものを掴もうと必死で足掻いている。
生きていることの倦怠を感じ取り、生きていることの意味を考えてぐるぐるして、
そのくせ可能性ばかり転がっていることを知って、
時々癇癪持ちの幼児みたいに泣きたくなる、そんな。
そんな衝動を、大人たちは「青いね」と言って笑うかもしれない。
でも、だからなんだ。羨ましがらせてやればいい。思う存分に笑ってよ。
私たちは今、一度しかないときを必死に足掻いている。灰色の中を、ただひたすら。
それは、青い春なんて綺麗なものじゃないだろう。でも、きつい、さみしい、つらい、わからない、そんな雨雲の切れ間に、馬鹿みたいに鮮やかな青がある。
丁度今広がっている、この空のような。
癇癪持ちの幼児みたいに理屈抜きで笑うこともできる、私たちのような。
「あはは、岳人かっこいー!惚れるーー!」
「あったりめーだろ」
「ヒーローだよもう。跡部なんか目じゃないよ」
「跡部なんか元から目じゃねーよ」
「あっ言った!跡部に言いつけてやろー」
「なっお前ハメやがったな?!だからテニスの話だって、」
「岳人がー、跡部なんかミクロ単位の存在だって言ってましたー、って」
「人の話聞け!振り落とすぞ!」
「やーん、振り落とすなんてひどいわぁ」
「キショいからやめろ!」
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08.18.05
(箸が落ちただけで笑い転げられるお年頃)
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